〜There is no accounting for "shiro-lover"


  ここはある城好きの、気ままに巡り歩いた数々の城の記録のサイトです。携帯電話のカメラで撮ったピンボケ写真もあったり

しますが、それぞれの城に纏わる小ネタも含めて、あまり気にせず更新していきます。





































































































































































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会津若松城(鶴ヶ城)
保科松平肥後守左近衛権中将家23万石の城です。3代将軍家光の異母弟・保科正之に始まり、徳川一門の中でも最も将軍家への忠誠を大事とした藩です。家光は死に臨み、嫡子・家綱の補佐を保科正之に託しましたが、その信頼の証しが保科松平家の家格に表れています。保科松平家は23万石ですが、これは親藩の中で御三家の水戸家25万石に次ぐものだということです。
会津若松はもともと会津黒川という地名でしたが、この地に入った蒲生氏郷が若松に改めました。蒲生氏郷は前任地の伊勢松坂でも地名を改めています。
会津若松城は、歴代の政権から奥州の抑えとして、信頼のおける武将が配せられてきましたが、相当大きな規模の城でした。天守台と建物のサイズが合っていないことから、蒲生氏郷時代の天守は現在より大きかったと言われています。また、近年、瓦の色が赤瓦だったことが判明しました。
日本100名城No.12。



青葉城  →  仙台城


明石城
越前松平左兵衛督家8万石の城です。8万石ですが、10万石格が認められていたようです。映画「十三人の刺客」で討たれる側の殿様が明石藩主でした。
それはそれとして、明石城は駅のホームからも2つの櫓が横に連なる姿が美しく、好きな城の一つです。日本100名城No.58。




安芸城(安芸土居)
土佐藩山内家の家老・五藤家が代々預かった城です。戦国時代までは安芸氏の居城でしたが、関ヶ原の戦後に山内一豊が土佐入国した際に五藤家に預けられました。土居部分は五藤家が整備したものです。
 城と周辺が土居廓中(どいかちゅう)と呼ばれる武家屋敷町割になっており、現在もその名残りが見られます。


秋田城  →  久保田城


秋月城(杉本城)
筑前国秋月、黒田甲斐守5万石の陣屋です。秋月藩は福岡藩の支藩で、黒田長政の3男に分与されました。
もともと秋月は戦国時代は秋月氏が領しており、大友宗麟と争っていましたが、秀吉の九州征伐で敗れ、秋月氏は日向国高鍋へ移されました。この時に秋月城は廃城となったのですが、黒田家の秋月藩立藩で陣屋として復活しました。現在は小学校となっていますが、石垣や濠、門が見られます。




赤穂城
「忠臣蔵」で有名な浅野内匠頭の城です。この浅野家は広島の浅野家の分家筋です。小藩の割に立派な城で、赤穂藩が特産の「塩」で財政が豊かだったと思われます。現在も整備が進められており、また行ってみたい城です。日本100名城No.60。




浅尾藩陣屋
備中国浅尾、蒔田家1万石の陣屋です。蒔田広定は豊臣大名で、関ヶ原で西軍についたために改易なりました。後に許されて浅尾藩として1万石を与えられます。子の代に領地を分与したため万石以下となり、以後は旗本寄合席として幕末まで続きますが、江戸市中警備の功績で1万石の諸侯に復しました。
陣屋は現在は住宅地の迫る小高い丘の上一帯にあったようです。遺構はほとんど残っていませんが、備中国分寺の近くなので気が向いたら寄ってみるのもよいでしょう。




麻田陣屋
摂津国麻田、青木甲斐守家1万2千石の陣屋です。現在の大阪府豊中市の伊丹空港への乗り換え駅である蛍池駅前一帯にありました。藩祖・青木一重は元々徳川家康の家臣でしたが、出奔し豊臣秀吉の家臣となり、摂津国豊島郡と呼ばれた蛍池付近に領地をもらいました。関ヶ原後もずっと豊臣家の家臣でしたが、秀頼の死後剃髪し蟄居していたところを家康から召し出され、旧来の領地を安堵され、その後幕末まで続きました。よほど家康から高い評価を得ていたのだと思われます。
陣屋の遺構は市街地化によりほとんど見られませんが、近隣の民家に陣屋の門、寺院に藩主御殿の玄関が移築されています。



足利氏館
室町幕府の将軍家である足利氏の館。足利氏は清和源氏の庶流で、栃木県足利に地盤を持っていました。近くに日本最初の学校と言われる「足利学校」もありこちらも必見です。
日本100名城No.15。




足守陣屋
備中国足守、木下淡路守家2万5千石の陣屋です。木下家は、秀吉の妻・北政所(ねね)の実兄である杉原家定に始まり、木下の姓と豊臣家の家紋・五七桐紋の使用が認められました。関ヶ原の時に北政所(当時は既に出家し高台院)を警護した功で足守に領地を安堵されました。因みに関ヶ原の裏切り者として悪名高い小早川秀秋は木下家定の息子で、関ヶ原後に大加増で足守のすぐそばの岡山城主となりました。陣屋のすぐ隣に藩主の庭園である近水園(おみずえん)があり、こちらも必見です。




麻生藩陣屋
常陸国麻生、新庄駿河守家1万石の陣屋です。初代藩主・新庄直頼は初め浅井家に仕え、浅井家滅亡後は織田家、信長の死後は秀吉に仕え、近江大津城、大和宇陀松山城を歴任し、摂津高槻3万石の城主の時、関ヶ原の戦が起こります。関ヶ原ではやむなく西軍につき、戦後改易されましたが、その後赦免され麻生藩3万石を立藩しました。その後、3代藩主・直好は子がなく、養子・直時を後継としていましたが、直好62歳の時に実子・直矩が誕生します。しかしながら、幼少ということで一旦、直時が4代藩主となり、直矩が15歳になった時家督を譲りました。この時直時に対し、隠居料として7000石が分与されました。
ところが直矩が17歳で子がないまま急死してしまいます。麻生藩は幕府に無断で後継者を擁立しようとしたことで改易となりますが、前藩主・直時に隠居料の7000石に3000石を加増の上1万石として、再勤を認め、麻生藩は再興され、幕末まで続くことになります。
 陣屋跡は現在、小学校の敷地となっており、遺構は残っていませんが、隣接する家老屋敷が残っています。




安土城
言わずと知れた織田信長の天下布武の象徴です。石畳の階段を登って行くのですが、よく見ると階段の敷石の中にお地蔵様があったりして驚かされます。近くに博物館があり、そこでは天守閣の最上階の実物大の再現したものが見られます。日本100名城NO.51。




尼崎城(琴浦城)
桜井松平遠江守4万6千石の城です。尼崎は幕府にとって、大阪城の西の守りという意味で重要な拠点でした現在は石垣が少しばかり復元されています。すぐ近くの桜井神社に天守の瓦が残っています。




天城陣屋
備前国天城、岡山藩家老・池田出羽守家の陣屋です。天城池田家は元々、岡山藩主・池田家の藩祖・池田輝政の兄・池田元助の息子に始まる家柄で、藩主家を支える一族として下津井城などの城代を務めてきました。一国一城令で下津井城が廃城となると、天城に領地を与えられ天城池田家として岡山藩の家老を務めました。
 天城は現在の倉敷市藤戸町にあり、陣屋跡は高校のグラウンドとなっています。小高い丘の上にあり往時を偲ばせるものがありますが、遺構はほとんどなく、近隣の寺院に移築された陣屋門が見られます。



天霧城(あめきりじょう、雨霧城)
讃岐国の戦国大名・香川家の本拠地の詰めの城です。香川家は讃岐守護・細川家に従い相模からやってきました。讃岐西方守護代として西讃岐を治めていましたが、細川家が三好家に敗れると三好家の支配下に、その三好家が土佐の長宗我部家の侵攻で敗れると長宗我部家に従い、長宗我部元親の二男を養子に迎えるなど家の存続を図りますが、秀吉の四国征伐で取り潰しとなり、天霧城は廃城となりました。
 天霧城は丸亀平野の西端の標高382mの天霧山の山頂にありますが、現在は弥谷寺の参道から天霧山へつながる登山道を辿っていく形になります。山城の中でも危険度、難度は格別で、特に「犬返しの坂」と呼ばれるところは、「来なきゃよかった」と思うほど大変です。
しかしながら、遺構として郭や石垣が見られます。





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