逆井城(さかいじょう、飯沼城) 茨城県坂東市あたりにあります。関東の城の特徴がよくわかる城です。近くの関宿城の遺構である門も移築されています。 |
佐賀城(沈み城) 肥前国佐賀、鍋島信濃守35万7千石の城です。佐賀藩は幕末に薩長土肥の一角で偉人を多く輩出しました。佐賀城は別名「沈み城」といい、危機が迫った時には主要部分以外は沈む構造になっていたそうです。御殿が再建されています。日本100名城No.89。 |
篠山城(ささやまじょう、桐ヶ城) 丹波国篠山、青山下野守6万石の城です。築城の名人・藤堂高虎の作です。石垣や再建された書院が見られます。日本100名城No.57。 |
佐貫城 上総国佐貫、阿部因幡守家1万6千石の城です。現在の千葉県富津市佐貫にあります。佐貫は安房の里見家と北条家との争いの最前線の拠点であり、上杉謙信に古河御所を追われた古河公方足利義氏が北条家の庇護の下に仮の御所を置いていたりしました。小田原征伐後は、家康の家臣である内藤家を始め、譜代の家臣が城主格で入りました。 城の遺構としては、石垣や土橋、空堀等が見られます。 |
鯖江陣屋 越前国鯖江、間部下総守4万石の陣屋です。この間部家は6代将軍・家宣の側用人として権勢を奮った間部詮房の弟の家です。鯖江藩は財政窮乏の為、城主格で築城の許可を得ながら、ついに実現しませんでした。 陣屋の遺構としては、市内の寺院等に陣屋の門が移築されています。 |
佐和山城 近江国佐和山、石田治部少輔三成が居城とし、関ヶ原の戦の敗戦により落城炎上した城です。場所は彦根城から数Kmの目と鼻の先にあり、交通の要衝として重要視されたところです。そういう意味で歴代の城主は丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴と錚々たる大名ばかりです。関ヶ原の戦後もこの重要な地に徳川四天王の筆頭・井伊直政を配置します。直政はすぐ近くに彦根城を新たに築城しますが、佐和山城の廃材も使用された様です。彦根城の完成により佐和山城は廃城となりました。 佐和山城は現在、遺構らしいものは少なく、山上に石垣が見られるほか、近隣の寺院に移築された城門が残っています。当時は5層の天守があったといわれ、時代の変わり目とは言え失われたのは残念です。 |
三田城・陣屋(さんだじょう、車瀬城) 摂津三田、九鬼長門守家3万6千石の城です。九鬼家はもともと志摩国鳥羽城を本拠地とする水軍の頭領でした。関ヶ原の戦で二代藩主・九鬼守隆は東軍に参加、父の初代・嘉隆は西軍に与し、真田家の様に生き残りを図った結果、東軍の勝利で守隆は5万6千石に加増されます。ところが、守隆の後継争いが勃発し、幕府の仲裁で一旦は三男・隆季に1万石分知、家督と鳥羽城4万6千石は五男・久隆に与えられました。隠居の守隆在命中は抑えが効いていましたが、死後争いが再燃し、再び幕府の裁定を仰ぐ事態となり、結果、隆季は丹波綾部2万石、久隆は摂津三田3万6千石へそれぞれ移封となりました。水軍で勇名を轟かせた九鬼家は海を取上げられ、山国へ追いやられてしまうことになりました。 現在は、本丸が小学校、二の丸が高校の敷地になっており、その間にあった水堀が残っています。また、近隣の寺院に城門が移築されています。 |
信貴山城(しぎさんじょう) 三好三人衆の一人として大和一国を支配した戦国の梟雄・松永弾正久秀が多聞山城とともに大和支配の拠点とした城です。松永弾正久秀は東大寺の大仏を焼き払ったり、何度も信長を裏切り、最後はこの城に籠ったところを信長軍に攻められ、信長が欲しがった名器「平蜘蛛の茶釜」を粉々にした上で爆死しました。 信貴山城には4僧の天守があったと言われ、「高櫓」と呼ばれていたようです。信長はこの城の天守をモデルとして安土城を築いたと言われています。 |
宍戸陣屋(山尾城) 常陸国宍戸、水戸松平大炊頭1万石の陣屋です。水戸松平家は、水戸徳川家初代頼房の七男に松平姓を与えたご連枝です。藩主は江戸に定府、家臣は水戸藩からの出向だったとのことです。 陣屋の遺構はほとんど残っていませんが、土塁と民家に移築された陣屋門が見られます。 |
新発田城(しばたじょう、菖蒲城) 越後国新発田、溝口伯耆守6万石の城です。新発田は溝口家の一家支配で幕末まで続いた藩です。新発田城の遺構は石垣、櫓、堀、門とまずまず見ることができますが、自衛隊の施設がもともとの城の敷地の大半を占めており、残念なことになっています。 日本100名城No.31。 |
芝村陣屋 大和国芝村、織田丹後守家1万石の陣屋です。現在の奈良県桜井市に当ります。織田信長の弟・織田有楽斎長益は所領を子供に分与しました。そのうち四男の織田長政が戒重藩として1万石を継ぎましたが、居所を大和戒重から芝村へ七代藩主の頃に移転しました。 芝村陣屋は、現在は織田小学校となっており、石垣に名残りを残す程度しか遺構は残っていません。また、桜井市内の寺院に城門が移築されています。 |
志布志城 大隅国志布志、薩摩の島津家が直轄した城の一つです。志布志地方は鎌倉〜室町時代には救仁院と呼ばれ、この地を巡って南北朝時代時代は楡井家と畠山家、戦国時代は日向の伊東家と薩摩の島津家という具合に攻防が繰り広げられました。最終的に薩摩の島津家の支配下となりますが、一国一城令で廃城となりました。 志布志城は周辺の山々に展開する巨大な城で、郭と郭の間は堀切で区切られ堅固な構造となっています。 |