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苗木城(赤壁城)
美濃国苗木、遠山美濃守1万石の城です。遠山家は戦国期から苗木に根を張った勢力でしたが、秀吉の時代に追われてしまいます。しかしながら、家康の支援があったとはいえ、浪人状態で関ヶ原を迎え、城主が出陣中の隙をついて、わずかな手勢で城を奪い返し、そのまま苗木城を安堵されました。
苗木城の見どころは何といっても、自然の大きな岩石をそのまま利用して築城していることです。珍しいので一見の価値はあります。




長篠城(末広城)
長篠の戦で有名な城です。岐阜県にあります。合戦に先立つ攻防戦においての鳥居強右衛門の逸話は、是非資料館で確かめてから見てください。
日本100名城No.46。




長島城
伊勢国長島、増山(ましやま)弾正小弼家2万石の城です。伊勢長島というと長島の一向一揆を思い浮かべますが、一時は一向一揆の拠点となっていました。その一向一揆を征圧後、織田家の支配下で滝川一益の城となります。その後賤ヶ岳の戦後、織田信雄の居城となりますが、天正の大地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けた為、信雄は清州城へ移ります。江戸時代には長島藩が置かれ、一旦廃藩になりますが、最終的には増山家の支配で幕末を迎えます。
この増山家は、4代将軍・家綱の生母・宝樹院の弟が1千石で取り立てられた家柄ですが、2万石の小藩ながら生き残りました。
 長島城は現在小学校になっており、遺構はほとんど残っていませんが、校庭に残る松の木や近隣の寺院に移築された大手門、同じく近隣の寺院に移築された書院などわずかに当時を偲ぶものが残っています。




中津城(扇城)
豊前国中津、奥平大膳大夫10万石の城です。秀吉政権下で中津は軍師・黒田官兵衛の領地でした。関ヶ原の功で黒田家が福岡へ移り、細川家が入ります。細川家が肥後に移った後、小笠原家が入りますが、無嗣改易を免れ播磨国安志へ移され、奥平家が10万石で入りました。つまり、中津の城主は錚々たる大名でほとんどが大出世しています。
中津城は日本三大水城の1つに数えられ、川べりに建ち、自然の濠として利用した城です。模擬天守ですが、個人的には気に入っています。




長浜城(今浜城)
近江国長浜は秀吉が初めて城主になったところです。秀吉は信長に倣い、今浜と呼ばれていた地名を長浜に改めました。模擬天守ですが、長浜は秀吉贔屓の町なので雰囲気に浸りましょう。




中村御所館
土佐国幡多郡中村(現在の四万十市中村)、土佐一条家の本拠地館です。一条家は元々、藤原氏の五摂家の一つ一条家の分家で初代・教房は関白を務めました。応仁の乱で混乱する京都を避け、領地のある土佐に下向したのが始まりです。一条家は高い官位を背景に国人領主たちの盟主的地位に立ち、子孫は完全に土着し戦国大名化しました。
土佐七雄の盟主として、一時は没落しかけた長宗我部家を保護する等力を持ちましたが、長宗我部元親との戦に敗れた後7代で滅亡しました。
 本拠地中村は「土佐の小京都」と呼ばれるほど繁栄し、京を模した作りになっていたそうです。
 一条家の館は「中村御所」と呼ばれ、小高い丘の上に作られました。現在は一條神社となっていますが、遺構はほとんど残っていません。



中村城(為松城)
土佐国中村、現在の四万十市にあった土佐一条家の家老・為松氏が築城した城です。土佐一条家はもともと公家の名門・藤原氏のご摂家の一、一条家の庶流であり、応仁の乱を避け土佐に土着し武家化した戦国大名です。戦国時代の間、土佐にありながら高い官位を有し、所謂「土佐七雄」の盟主的存在でした。一条家は一時は長宗我部家の再興を助けるなど盟主的行動を行うものの、その後豊後の大友宗麟伊予国への侵攻を繰り返し、長宗我部家との争いでは敗北し没落しました。関ヶ原の戦後、土佐を領した山内一豊は実弟・山内康豊を中村城に配置しますが、一国一城令で廃城となりました。
 現在は為松公園として親しまれ、石垣と資料館を兼ねた模擬天守があります。



名古屋城(金鯱城)
尾張国名古屋、尾張大納言62万石の城です。天下普請で作られた壮大な城です。日本三名城の1つ。本丸御殿が再建中で完成が楽しみです。
日本100名城No.44。




名護屋城
肥前国名護屋、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として作った城です。石垣が見事です。周囲にある武将たちの陣地跡も一見の価値あります。
日本100名城No.87。








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